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浦和地方裁判所 昭和59年(行ウ)7号 判決 1985年3月25日

埼玉県八潮市鶴ヶ曽根一二九七番地八潮中学校内

原告

伊藤隆男

埼玉県越谷市赤山町五丁目七番四七号

被告

越谷税務署長

荒井一夫

右指定代理人

高須要子

星川照

南昇

長沢幸男

三ツ木信行

小松安雄

佐藤文夫

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

一  原告の請求の趣旨、請求原因及び主張は、別紙訴状及び準備書面記載のとおりであり、これに対する被告の答弁及び主張は別紙答弁書記載のとおりである。

二  証拠

本件記録中の書証目録記載のとおり。

理由

一  原告が、被告に対し昭和五八年二月三日、昭和五七年分の総所得金額を四三万一〇〇〇円、課税額を一万四一〇〇円、外国税額控除額を七七一円、源泉徴収税額を六万五一七〇円、還付金額を五万一八四一円として確定申告したこと、被告が原告に対し同年五月一〇日原告の昭和五七年分の所得税における外国税額控除額を零円、還付金額を五万一〇七〇円とする旨の更正処分(以下、本件処分という。)をしたこと、原告が被告に対し同年五月一二日本件処分について異議申立てをし、被告が右申立に対し同年八月一〇日棄却の決定をしたこと、原告は、国税不服審判所長に対し同年八月一二日本件処分について審査請求をし、国税不服審判所長が右請求に対し昭和五九年三月九日棄却の裁決をしたことについては当事者間に争いがない。

二  本件処分の適法性

所得税法九五条に規定する外国税額控除は、日本国の居住者がその年に生じた所得で、その源泉が国外にあるものについて、その所得の源泉の所在国の法令によって外国所得税を課せられる場合に限り適用される。

これを本件についてみると、成立に争いのない甲第二号証によれば、原告の昭和五七年分の申告所得額には国外にその源泉のある所得は含まれていないことが認められるから、同法九五条の適用はない。

従って、原告の昭和五七年分の所得税の確定申告における外国税控除額を零円とする旨の本件処分は適法である。

なお、原告は、自衛隊は憲法九条二項に違反するから、原告が所得税法により納付すべきものとされている税額のうち、防衛関係費が国家予算に占める割合に相応する分については、正当な法律によらない課税若しくは納税の義務付けであるか、又は違法な税の徴収である旨主張する。しかしながら、「国民は法律の定めるところにより、納税義務を負う。」(憲法三〇条)ものとされ、国民は、租税実体法が定める課税要件を充足する事実の発生により、当然に租税債権者(国又は地方公共団体)に対し、租税を納付する義務を負担することになる。これに対し、主として国家の歳入歳出の予定準則を内容とする予算の成立及び予算に基づく国費の支出については、国会の議決を経なければならないとされる(憲法八三条、八五条、八六条)が、予算の基礎となる歳入は、例えば、租税が租税法によって徴収されるように、法令の規定に基づいて徴収又は収納されるのであって、予算によってはじめて国家の徴収権又は収納権が生ずるものではない。

このように、憲法が規定する国民の納税義務と予算及び国費の支出とは、その法的根拠を異にする別個のものであり、ことに所得税などについては両者は直接的、具体的関連性を有しないから、仮に、原告が主張するように国費歳出の一部が憲法違反であるとしても、国民たる原告が他の法的救済を得られるか否かは別論として、少なくとも、そのことのみを理由として、歳入の根拠法令の一たる租税法令に基づく租税の収納義務を負担しない(又は徴収を免除される)ということはできない。したがって、原告の右主張は採用の限りでない。

三  結論

以上の次第で、原告の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担については行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高山晨 裁判官 小池信行 裁判官 深見玲子)

「訴状」

(一) 浦和地方裁判所 御中

(二) 一九八四年 六月十五日

(三) 原告 伊藤隆男

〒三四〇 埼玉県八潮市鶴ヶ曽根一、二九七 八潮中学校内

(電)〇四八九(九六)四二一九

被告 越谷税務署長 和気誠一

〒三四三 埼玉県越谷市赤山町五丁目七番四七号

(電)〇四八九(六五)八一一一

(四) 附属文書

〔1〕 林信一 一九八四・三・九「裁判書」関東信越国税不服審判所、関裁(所)五八第二一五九号、謄本(甲-一号証)二通。

〔2〕 伊藤隆男 一九八三・二・三「五七年分の所得税の確定申告書」越谷税務署、謄本(甲-二号証)二通。

〔3〕 一九八三・二・三「外国税額控除について」越谷税務署、謄本(甲-三号証)二通。

〔4〕 一九八三・五・十二「異議申立書」越谷税務署、謄本(甲-四号証)二通。

〔5〕 一九八三・八・十二「申告所得税の審査請求書」国税不服審判所、謄本(甲-五号証)二通。

〔6〕 一九八三・十一・九「反論書」関東信越国税不服審判所、謄本(甲-六号証)二通。

〔7〕Itto, Takao. August 1,983.“Oral Statement at the Koshigaya Revenue Office.”謄本(甲-七号証)二通。

〔8〕 December 17, 1983.“Oral Statement attending the Claim for Compldint Inguiry.”謄本(甲-八号証)二通。

〔9〕 岩井和雄 一九八三・十・三十一「担当審判官指定の通知及び答弁書副本の送付について」関東信越国税不服審判所、関審六四二、謄本(甲-九号証)二通。

〔10〕 一九八四・三・十四「裁決書謄本の送達送付について」関東信越国税不服審判所、関審裁第二〇二号、謄本(甲-十号証)二通。

〔11〕 高坂和正 一九八三・五・十「昭和五七年分所得税の更正通知書」越谷税務署、越所一書第六十一号、謄本(甲-十一号証)二通。

〔12〕 和気誠一 一九八三・七・二十七「意見陳述の期日等通知書」越谷税務署、越谷所一第五八一号、謄本(甲-十二号証)二通。

〔13〕 一九八三・八・十「異議決定書」越谷税務署、越所一書第十号、謄本(甲-十三号証)二通。

〔14〕 一九八三・九・二十六「答弁書」関東信越国税不服審判所、越所一第七五五号、謄本(甲-十四号証)二通。

(五) 全紙数 二十一枚

原告は次の二点の趣旨の判決を請求する。

(1) 被告による昭和五八年五月十日付「昭和五七年分所得税の更正処分」を取り消す。

(2) 訴訟費用は被告の負担とする。

請求原因について

原告は一九八三年二月三日に一九八二年分所得税の確定申告を被告に対し行なったが、その際、税額より、一九八三年度政府歳出予算中に防衛関係費が占める割合を日本の正しい法律によらない課税であるとの理由から、外国税額として控除するよう要求した(甲-二号証、甲-三号証)

これに対し被告は一九八三年五月十日、先きに原告が外国税額控除として申告した金額を削除する更正処分を行ない(甲-十一号証)、原告は翌日この旨の通知書を受領した。

原告は一九八三年五月十一日午後一時に、同通知書を廻って越谷税務署の担当者と電話によるやりとりを行ない、その中で同担当者は、更正処分の理由は確定申告書で外国税額控除とした部分が国税に関する法律に叶っていないからか、との旨の原告の問いに、これを是認した。これを受けて原告は一九八三年五月十二日、更正処分の理由はあらゆる可能性に於いて成り立たないとして、被告に対し同処分の取り消しを求める異議申し立てを行なった(甲-四号証)。

被告は一九八三年八月一日、原告に意見益述の機会を与え(甲-十二号証)、そこで原告は、防衛関係費分税額が外国税額が外国税額に該たるかどうかについて、該たるとした場合必要となる筈の外国から課税を受けたことの独立した証明が、この場合不要となる。やむを得ない事情とは、重大な憲法破棄が、憲法改正としてでなく、行なわれているという事実であること、また外国税額に該たらないとする場合は、防衛関係費分税額の徴収は単純な憲法違反となる旨を、述べた(甲-七号証)。

被告は一九八三年八月十日、一)所得税法に於ける防衛筆分税額の控除規定の欠如、二)税額の算定が国の歳出予算に左右されないこと、三)更正処分が所得税法に叶ったものであること、を挙げて異議申し立てを棄却する決定を行ない(甲-十三号証)。原告は翌日この旨の決定書を受領した。

原告は一九八三年八月十二日、異議決定の理由について、一)防衛費分税額の控除規定は、同税額の徴収が日本のあらゆる正しい法令に叶っている限りに於いてのみ有効であること、三)更正処分の窮極的な合法性が問題となっている時に、その所得税法との整合性を主張するだけでは不充分であること、等を主張して、国税不服審判所長に対し更正処分の取り消しを求める審査請求を行なった(甲-五号証)。

これに対し被告は、四)原告が、防衛費分税額を納付することを義務付ける法規定の欠如を理由に更正処分を違法としていること、五)原告の所得税額が所得税法に叶っていること、を挙げて、審査請求を棄却する裁決を求める答弁を関東信越国税不服審判所長に対して行ない(甲-十四号証)、同審判所長はその旨の答弁書を担当審判官指定の通知に併わせて送付し(甲-九号証)、原告は一九八三年十一月七日これらの答弁書及び通知を受領した。

原告は一九八三年十一月九日、先きの被告側答弁に対して、四)防衛費分税額の納付を義務付けている。防衛庁設置法、自衛隊法、等の悪しき法規定が存在すること、また五)については反対しないこと、等の旨の反論を関東信越国税不服審判所の担当審判官に対して行なった(甲-六号証)。

同担当審判官は一九八三年十二月十七日、原告に意見陳述の機会を与え、そこで原告は、三)を認めた他か、被告側の論法について、それは専ら、六)所得税額は所得税法のみに基づいて算定されること、及び三)に基づいて、更正処分を正当化しようとするものであるが、こうした論法は法体系の内在的特性からして誤りであり、同処分は依然として日本国憲法第九条第二項の規定に叶っていない旨を述べた(甲-八号証)。

これに対し国税不服審判所長は一九八四年三月九日、六)日本国憲法の個々の条文は所得税額の算定に関与しないこと、及び一)、四)を理由に、審査請求を棄却する旨の裁決を行ない(甲-一号証)、関東信越国税不服審判所長に命じて裁決書を送達させ(甲-九号証)、原告は一九八四年三月十六日これを受領した。

訴訟理由

原告の請求が法的に真である為には、更正処分が矛盾を来たすような法的規定が在り、また、そうした法的矛盾は原告の主張によって初めて説明出来るものであることを示さねばならない。

原告の主張の法的な正当性を判断するいくつかの論理的枠組みとしては、まず、それは原告としての適格性の上に立ってなされたものかどうか、次に、所得税額中で防衛関係費に充当される部分(以下、軍税)を徴収するといった高度に政治的な国家行為は司法審査権が及ぶかどうか、そして、もしそれが及ぶとしても、その行為は違法なものと言えるかどうか、また、たとえそれが窮極的に違法であるとしても、その違法が憲法のみに対するものだとすると、その行為は直ちに無効と言えるかどうか、特にそれが特定の実体法に基づくものであったり、或はまた、そのような実体法が別の実体法の規定を具体化している場合にはどうか、等について考えねばならない。

一・一 原告の適格性について、行(政事件)訴(訟)法第九条は、1)処分の取り消しによって回復される利益があり、かつ、2)その利益が法律上〔保障された〕利益でなければならない旨を規定している。本件の場合、ひと度び更正処分が取り消されるならば、徴収された軍税は還付される筈であるから1)については問題は無いが、2)については事情が異なる。

一般に或る利益が一定の経験的条件の下に保障されていると言うとき、経験的条件に変更が無いのに、その利益を侵害するならば、それは、少なくともその利益を保障している法律には違反することになるので違法である。従って、侵害された利益が或る法律で保障されていると言う為には、その利益の侵害をその法律に叶っていないと見做すのに充分な経験的条件が無ければならない。 例えば長沼訴訟では、それ迄森林法により住民の基本的権益を保障する為に執られていた措置を解除するにあたって、その措置を続ける理由が在るかどうか、或はまた、その措置を解除する公益上の必要が在るかどうかが問題となった(福島、他か〔8〕参照)。一) つまり、この意味で行政訴訟に於ける原告の適格性を証明することは、その対象となった処分の違法性を証明することに繋がる。二)本件の場合、そのような経験的条件としては、軍税の軍事費に該たるかどうかが問題となる。

一九八三年度一般会計歳出予算は、概算で総額五十兆三千七百九十六億三百万円、うち防衛関係費は二兆七千五百四十二億二千四百万円で(『読売新聞』日刊、一九八二・十二・三十一、P二)、その構成比は五・四七%である。原告の一九八二年分所得税額は一万四千百円であり、同額中、五・四七%分が防衛関係費に充てられたことになるから、原告の一九八二年分の軍税は七百七十一円となる。

防衛庁〔3〕によれば、一九八三年度防衛関係予算の使途別内訳は、人件・糧食費、維持費等、装備品等購入費、施設整備費、研究開発費、基地対策費、その他の順で、その構成比は四四・五%、一六・三%、二四・九%、一九%、一・一%、一〇・〇%、一・三%となっている(PP二二九-二三二)。装備品等購入費には前年以前の年度の予算に於ける後年度支払い分が含まれているが、一九八三年度分の主な装備内容を見ると表一のようになる(同書、P二一六)。

表 一

また、施設整備費には、日本に駐留する米国軍へ提供している施設に対する五百三億円も含まれている(同紙、同箇所)。

表一中の各誘導弾、及び、各機関に塔載される誘導弾の性能諸元は表二に示される。三)

表 二

これらの誘導弾は射程こそ七-一一一Kmと、短・近距離用で、通常弾頭を装着し、ほとんどが固体燃料によるロケット推進であるが、誘導方式では著しく異なっている。短SAM Stinger, Sidewinder は、攻撃目標から輻射される赤外線を感知してそれに向かって自己誘導するが、Harpoonは、予め組まれたプログラムに従って速度を自己修正する慣性誘導と、ロケット本体以外から照射された電波の反射源を目標としてそれに向かって自己誘導するactive radar homing(ARH)との複合方式であり、Hawk, Tartar, SparrowはこのARHを小形・軽量化した方式である。semi-active radar homing(SARH)を採っている。(S)ARHによって誘導弾の命中精度は向上する。また、HarpoonとSparrowがそれぞれ海・空両用であることから明らかなように、この誘導方式は誘導弾の塔載手段を特定しない。三菱重工製の空対艦誘導弾、ASM-1も大旨この方式を採っていると言われるが、三菱はASM-1を活用して射程が一五〇-一六〇Kmの地対艦巡航誘導弾XSSM-1を研究・開発中であり(豊田〔22〕P八五)、防衛庁はこの為一九八二年度に地対艦誘導弾開発の名目で予算を計上している(防衛庁〔2〕PP一六五f)。つまり(S)ARHは慣性誘導方式と複合すれば射程を或る程度簡単に延ばすことが出来るのである。

(S)ARHによって誘導弾の誘導を行なう際には、攻撃目標に電波を照射する施設が必要であり、また、そうした施設は、領域を探捜して目標を探知し、情報収集及び分析を行なって敵を識別し、そして攻撃目標の正確な位置を局限してそれを誘導弾発射機関に伝達するような情報処理機構を必要とする。DDG, DD, DE, F-15及びF-1はいずれも発射機関としての役割りの他かに、そうした情報処理機構としての側面も兼ね備えているが、これら自身のレーダーで捕捉出来ない位置に居る目標、或はXSSM-1の目標を捕捉するのがP-3C, E-2C及び地上レーダーである。こうして(S)ARH方式の誘導弾を発射する機関と、(外部の)情報処理機構とは、ひとつの戦略体系を構成することになる。目標を効率良く破壊するということが軍事的であるということの含意であるなら、精巧な戦略体系の構築を意図して組まれた一九八三年度分防衛関係予算は窮めて高度の軍事性を持つものであると言ってよい。

以上の考察から原告より徴収された軍税は軍事費に充てられたことが明らかであるが、それでは、そもそも日本が軍事費を徴収することは違憲であろうか。これについては、従来、そうした問題は政策決定者の自由裁量に含まれるとする見解が在るので、次にそれについて述べることにする。

一・二 政策上、a)他国を侵略すべきかどうか、或はまた、b)自国を防衛すべきかどうか、そして、防衛するとすれば、c)どのような方法を、d)どの程度迄、採るべきか、といった論点について、それらのうちどこ迄を統治行為に委ねるかについてはさまざまな立場が在りうる。四)砂川最高裁判決では、米軍の駐留を合憲とする旨の判断を示してはいるものの、それは駐留米軍を日本の戦力でない。つまり、日本自体の防衛政策とは見做さないことを理由に行なっているのであるから、a)からb)について迄審査していると言ってよい(田中、他か〔20〕参照)。更に同判決中、垂水克己・裁判官はその補足意見〔21〕で、違憲審査権の限界を決定することも裁判所の権限である旨を主張している。これは、法に基づかない政策行為をどこからどこ迄認めるのかも、また、法に基づかないで決定されると言うのと同じである。小谷勝重・裁判官の意見〔15〕はa)からd)について、一切を違憲審査権の領域に入るものとし、統治行為論はその法的根拠が薄弱であるとしている。だが、そもそもいかなる法にも基づかない政策行為を容認する立場について、それが何らかの法に基づくことを期待することなど有り得ない筈である。

一般に、法体系は個々の法典を単位として構成され、そして各法典は個々の条文から成り立っている。各条文がどのように表わされるかについては、どのような形式でも許される訳でなく、そこで用いられる語 、及び語 項目と語 項目との結合方式は所定の種類に限られている。語 項目同士を結合して正しい形式の条文を組み立てる為の条件を述べるには、個々の語 項目が属する範 同士の結合方式を取り決めることでこれを行なうやり方と、条文が果たすべき機能的役割りを、直接、条文の形でこれを指定していくやり方の二種類が考えられる。後者の場合、各条文は、立法者に予め与えられた載量余地の中で特定の部分が選定されることで正式の条文となる。こうした例としては、日本国憲法第三十条の納税義務の規定と、その手続き規定としての租税諸法との関係が挙げられる。また各条文がどのように解釈されるか、そして条文同士、及び、法典同士はどのように相互作用をするかについても、それぞれ予め所定の方式のみに限られており、どのようなものでも許される訳ではない。こうして法体系は各部門が決められた役割りを果たし合いながら、全体としてひとつの調和した体系を構成する。この意味で法体系は公理系であり、あらゆる立法政策はこうした公理系化の方法を目指さねばならない。

日本の場合、法典の解釈方式を取り決めているものは日本国憲法であり、その第八十一条は、一切の処分が同法に叶ったものであるかどうかを審査する権限を設け、そしてその第九十八条第一項は、同法に叶っていない国務行為が無効である旨を、また、更にその第九十九条は、公務員が同法を尊重・擁護すべき旨を、それぞれ定めている。従って、審査可能な特定の政策行為のみを統治行為に委ねることは、憲法に副った法の解釈とは言えない。

一・三・一 統治行為論が成り立たないとすると、軍税を徴収するといった行為は日本国憲法に叶っているのであろうか。同法は第三十条で法定による納税を業務付けている。既に§一・二で見た通り、国民から税を取り、それでもって自衛戦力を準備することが違法であるなら、それは同法第九十八条第一項により無効であるから、従って自衛戦力の準備が日本国憲法に叶っているかどうかを見なければならない。これには同法第九条を調べる必要が在るが、同条の解釈を廻っては、その第一項で、一)いかなる戦争も放棄されたとするか、または、二)侵略戦争のみが放棄されたとするか、そして、その第二項で、A)いかなる戦力の保持も禁止されたとするか、または、B)侵略戦力の保持のみが禁止されたとするか、について意見が分かれるところであり、長沼訴訟第一審の伊藤隆・原告他かのように、少なくとも、あらゆる実体的戦力を禁止していると見做す者、つまり、一)-A)または、二)-A)を採る者から(〔11〕P八)、同訴訟の村重慶一・被告代理人のように、二)-B)を採る者(〔16〕PP六五f)、更に論理的には、侵略-自衛を問わず、あらゆる戦争を政策上排除しながら、実体的戦力を認めるという読みをする者、つまり、一)-B)を採る者迄考えられうる。五)

これらのうち二)を採る限り自衛戦争は、少なくとも政策上は排除されていないことになる。長沼訴訟第一審の判決はこの立場であるが(上掲書、PP八九-九八)、そのように解釈する理由のひとつを同判決は、第一項中の「国際紛争」という語句に求めている。しかし国際紛争とは、そもそも国家間の紛争という意味であり、その一方の当事者が自国であることを妨げるものではなく、従って、それはその紛争を解決する為の戦争が自衛戦争か侵略戦争かといった、戦争の形態を特定するものではない。従って、この意味での国際紛争を解決する為の戦争を放棄した以上、第一項は自衛戦争を政策的に放棄したものと言ってよい。

次に第二項の解釈について、

長沼訴訟の被告側は、第二項中の次の文、(1)、を(2)のように解釈している(〔16〕P六六)。

(1) 前項の目的を達するため・・・戦力は、これを保持しない。

(2) ・・・第一項によって放棄することを定めた国際紛争解決の手段としての戦争をひき起こすようなことのないようにするために国際紛争解決の手段である戦力を保持しない・・・

同被告側によれば「国際紛争解決の手段」とは、「(自国の主張を他国に認めさせるための)圧迫手段」を意味するということなので(同書PP六五f)、この方式に従うと(2)は(3)のように義解してもよい。

(3) 〔圧迫手段〕としての戦争をひき起こさないために〔圧迫手段〕である戦力を保持しない。

(1)と(3)の直線部と波線部は、それぞれ、対応する め込み文とその主節を表わし、(3)の二重波線部は、(1)には無いが、「戦力」の範囲を限定する為に(2)で新たに付け加えられた条件である。そこでもし真偽関係に限り両直線部が両文に於いて全く同一の機能を担っているとすれば、(1)の直線部を(3)の直線部でもって置き替えて出来る文、(4)、は果たして(3)と同義であるかどうか考えてみなければならない。

(4) 〔圧迫手段〕としての戦争をひき起こさないために・・・戦力は、これを保持しない。

そもそも(3)の直線部は、主節に対する話者の心的態度とでもいったものを表わしており、意味的には付け足し的である。このことは、次のようにして、両文をやや形式化してみれば明瞭である。

(3)に含まれる五つの述語を、それぞれ「・・・は圧迫手段である」はPで、「・・・は戦争である」はFで、「・・・は・・・をひき起こす」はCで、「・・・は戦力である」はMで、そして「・・・は・・・を保持する」はHで表わすことにし、また、a、jを、それぞれ個体変項と個体定項とすると、(3)と(4)は、それぞれ(5)と(6)のように表わすことが出来る。

(5)(a) (j)(((F(a) P(a)) ~C(j,a))・((M(a) P(a)) ~H(j,a)))

(6)(a) (j)(((F(a) P(a)) ~C(j,a))・(M(a) ~H(j,a)))

但し、全称記号は個体変項の前では省略するものとする。つまり、(a)Q(a)はV(a)Q(a)である。(5)と(6)は、また、それぞれ(7)と(8)のように変換してもよい。

(7)(a) (j)(((F(a)・~P(a))V~C(j,a))・((M(a)・~P(a))V~H(j,a)))

(8)(a) (j)(((F(a)・~P(a))V~C(j,a))・(~M(a)V~H(j,a)))

従って、(3)と(4)の論理的可能性の範囲は、それぞれ(9)と(10)のように表示することが出来る。

(9)(a) (j)(((F(a)・~P(a))・(M(a)・~P(a)))V((F(a)・~P(a))・~H(j,a))V

(~C(j,a))・(M(a)・~P(a)))V(~C(j,a)))

(10)(a) (j)(((F(a)・~P(a))・~M(a))V((F(a)・~P(a))・~H(j,a))V(~C(j,a)・~M(a))V

(~C(j,a)・~H(j,a)))

(9)では、戦争或はまた戦力が圧迫手段でないという可能性が指定されているのに対して、(10)では、戦争が圧迫手段でないという可能性は指定されていても、戦力が圧迫手段でないという可能性は指定されていない、つまり、圧迫手段とはならない戦争及び戦力について、(3)はその双方を容認するのに対し、(4)は、圧迫手段とはならない戦争のみを容認するものである。(尚お、4が或る種の戦争を容認するのは、それが3の直線部を含むからである。)従って、(1)の、問題の め込み文については、それを長沼訴訟の被告側のやり方に副って解釈したとしても、第二項で実体的な自衛戦力が認められているとは見做すことが出来ないことになる。つまり同項で問題となるべき筈の事柄は、同 め込み文がその主節に対して持つ外的意味であって、 め込み文中の「前項の目的」という語句が持つ内部的意味ではない。この結論は驚くにあたらない。少なくとも同語句の解釈に関する限り、所謂「九条問題」はそもそも在り得なかったのである。

一・三・二 Carl SchmittはVerfassnngslehreの§一一で憲法変動の形態を分類しているが(影山〔13〕PP三-五)それを整理すると次のようになる。まず、その変動に於いて、(1)制憲権は依然として保持されるか、或は、(Ⅱ)これが排除されるか、また、制憲権を保持する場合には、(a)現在の憲法の効力は存続するか、或は、(β)これが無効となるか、そして、現在の憲法が有効である場合でも、(ⅰ)現在の憲法の適用範囲をそのままの形で残すことになるのか、それとも(ⅱ)これが縮小されるのか、他方、現在の憲法が無効になる場合には、(a)その期間は無期限となるか、(b)これが暫時的になるか、によって、憲法破棄(Ⅰ-α-ⅱ)、憲法排除(Ⅰ-β-a)、憲法停止(Ⅰ-β-b)、及び、憲法廃棄(Ⅱ)が考えられる。Schmittは更に、条文変更の有無、変動手続の合憲性といった要因も考慮しているので、憲法破棄、憲法排除、及び、憲法停止については、それが憲法改正として行なわれることも在る。

Karl LoewensteinはErscheinungsformen der Verfassungsnderungの中で、憲法破棄は憲法法規の増加によって行なわれ、憲法上の構成要件の増減とは無関係であるとしている(影山〔13〕P一八)。しかし、法規の構成要件の大きさと、その適用範囲の広さとは反比例するから、憲法破棄が憲法法規の適用範囲を縮小するものである限り、当該法規の構成要件は拡大されねばならない筈である。それに、憲法破棄が結果的に、現在の憲法法規に矛盾する法規を生むとしても、増補された新法規と、以前から在る法規との間の調整は必要であるから、以前から在る法規としては、自らの適用条件をきつくすることで、新法規が適用するだけの余地を譲渡することになる。従ってLoewensteinの憲法破棄の定義は、それによって引き起こされる附随的状況にばかり重点を置いているので不備であると思われる。

日本国憲法第九条第二項は戦力の保持を禁じているのに、(自)衛隊法第八十七条は、これに矛盾して自衛隊に武器の保有を認めている。ここでは、そもそも憲法法規でないものが、憲法が規定する事項について、憲法と違った内容を規定しているという意味であたかも憲法と同格であるかのように振舞っているという現実を見ることが出来る。日本国憲法第九条に矛盾する自隊法第八十七条を適用せしめる為には、第九条に例外を認める措置を講ずる必要が在るが、そうした措置は、同条が本来含んでいない条件を追加するのであるから、憲法破棄に該たる。従って、§一・三・一で見た第九条第二項中の語句の外的意味の変更は、(憲法無視の)憲法破棄であると言ってよい。

一・三・二 一切の戦争と戦力が、それぞれ政策上及び実体的に日本国憲法でもって禁止されているとすると、日本は外部侵略からどうやって自らを守ればよいのか。この疑問には必ずしも答える必要はないと思うが、六)その代わりにどうしたら戦争を止めさせることが出来るかについて少し考えてみよう。

戦争には、イ)破棄自体を目的とする教条主義的なもの、ロ)利益奪取の為のもの、ハ)他国を防衛する為の義勇戦的なもの、等が在るが、イ)は事故と同じで止めることは出来ない。またハ)は自国を米国の戦域核の前哨基地としようとする日本の政策立案者達が採っている考えで、その動機は不明であり、必ずしも一般に受け入れられているとは言えない。従って、過去及び現在起きており、かつ、将来最も有りそうな戦争の形態はロ)であると言ってよい。七)

いま、どこかの国に対してロ)の形態の戦争が仕掛けられているとしよう。その場合、直接その圧迫の対象となっている人々以外で、そうした圧迫に反対する(主として第三国の)人々は、侵略国の軍事政策を徹底的に批難し、侵略国の政策立案者達については、外交上その国の政治的代表と見做さないようにすればよい。その一方で被抑圧民への医療・食糧上の援助を行なうべきだ。侵略国は尚おも他国の脅威を掲げて政策の変更を拒むかもしれないし、或はまた、侵略政策に反対する人々の国の政策立案者達が批難に同調しないかもしれない。それならば人々は自国の軍備を、もし在るなら、一方的に廃棄するか、或はまた、自国の政策立案者達の解職を求めればよい。この結果、侵略国の政策立案者達は侵略政策を執り続ける対外的根拠を失い、延ては第三国は軍事的手段によらずに戦争を止めさせることが出来るかもしれない。

このようなやり方は、軍拡政策よりも経済的にずっと安くつくとは限らない。しかし、今を去る四十年前この国が経験したことは、それ迄経済的利益を求めて執り続けて来た侵略政策が、多くの犠牲にも拘らず、経済的に破綻する迄撤回出来なかったということではないのか。経済的効用は安全保障政策の決定に関して何の基準にもならない。最近では、ベトナムのカンボディア進駐、グァテマラ反対府ゲリラの原住民虐殺、イスラエルのレバノン侵攻で示されるように、抑圧に対して武力で応じる者は、更に新たな抑圧を、しかも ての抑圧者以外に対して、行なうといった、正しくない結果を招いている。

一・四・一 違憲の自衛隊を認めさせるにはどうしたらよいか。 自衛隊を必要とする体制側によって探られて来た可能性は自衛隊を違憲から救済することであり、その為にさまざまな試みがなされて来た。本節では日本国憲法第九条の内在的特徴の観点から、その法的拘束力について検討する。

憲法の内在的特徴を扱ったものとしては、伊藤正己〔9〕、〔10〕、高柳賢三〔18〕が有名であるが、これらが共通して受け入れている点は、<1>憲法の各法規は、いくつかの型の規範に分類され、また、<2>それらはその型に応じてその法的拘束力の程度が判定される、というものである。

一・四・二 伊藤〔10〕は、憲法法規を、宣言規定、政治規範、プログラム規定、裁判規範に分け、政治規範は「裁判による強制を前提としない」とし(P.八九)、また、プログラム規定のひとつである生存権的基本権については、「裁判所でそれを具体化することはできない」としている(P.二〇五)。そして裁判規範としては、制約の違憲性を争う場合の経済的自由権、及び、精神的自由権を挙げている。(PP.二〇六f、二〇三ff)。

これらの裁判規範が内包することは、a)国家による特別の施策を必要としない活動を対象として、b)国家によるその保障を規定している、ということである。a)は、国家が国民に対して特定の活動を実際に保障する際の具体的手順が、何らかの法規によって整備されているべき旨を述べたものであって、そうした手順としては、当該活動を達成させる為に国家が執るべき措置といったものから、単なる不干渉の義務といったもの迄有りうる。b)は、法規によって保障された特定の活動に対する、国家による禁止、停止、代替、強要、等を不法として争う際に当該法規がその根拠となることを含意している。つまり、裁判規範とは、現在の制度によって(瞬時に)回復することの出来る利益を正当化する憲法法規であると言ってよい。宣言規定はa)またはb)に、政治規範はa)及びb)に、そしてプログラム規定はa)に、それぞれ叶っていないので裁判規範とは見做すことが出来ない。日本国憲法第九条は政治的規範であるから法的拘束力が無い。

以上が伊藤正己の裁判規範に関する仮説をやや堀り下げたものであるが、そこでは、行訴法第九条の、訴えの利益を正当化するかどうか、という基準でもって裁判規範性に比例して高まる。といった原則を受け入れていると思われる。しかし、裁判規範性と法的拘束力の度合いが比例するということは、それだけ両概念が弁別的でないことを意味するのであって、もしかすると、憲法法規の分類を、そのまま法的拘束力の判定に同一視することを通して、「裁判規範」でないにも拘らず法的拘束力を持つものの存在を暗黙裡に排除しているかもしれない。従って、ここで、法的拘束力を定義するC)の妥当性について検討しておかねばならない。尚お、その際でも、「裁判規範」とそうでないものへとの分類自体は、正当性を問題にしうる事項でないので、C)に関する結果とは無関係である。

行訴法第九条に基づいて訴えを起こすには、処分の取り消しによって回復されるべき利益を権利として定めた法律がなければならないが、当該の法律が権利の無条件の保障をしている場合を別として、それが何らかの場合を留保している場合には、訴えの対象となった利益侵害に対する不法性の証明が必要である。つまり当該の法律が、どのような種類の活動について、それをどの程度迄保障しているか、に関する特定が必要である。このような場合、訴えられた利益が法的正当性を持つかどうかは、当該の権利規定のみでは判断不能であり、そうした利益侵害を不法とする法律と合わせて初めてそれが可能である。権利規定だけでは、その権利の幅を特定出来ないのだから、不法性を証明する法律は、この訴えに於いて不可欠であるという意味で、法的拘束力を持つものである。従って、たとえ日本国憲法第九条が政治規範であったとしても、そのことと法的拘束力とは直接の関係は無く、寧了それは、同法第二十九条の保障する財産権の幅を特定する役割りを担うことが有りうる。更にこの場合、両条に求められるのは、国家による或る行為を禁止することで足りるから、保障実現の到達可能性は問題にならない。伊藤正己は法的拘束力という概念を、回復手段の備わった訴えの利益を保障する法規に、先験的に局限したのであるが、憲法がこうした形で訴訟に係わって来るのは寧了特殊例であり、憲法と森林法といったように、権利の種類を規定する法規と複合されて当該権利の幅を特定する、といった場合の方が多いと思われる。

一・四・三 高柳〔18〕は憲法を基本組織法型とイデオロギー型とに分け(P.一五八)、後者は基本的人権と社会的経済的権利から成るとしている(PP.一三三f)。また、イデオロギー型憲法に於ける規定のうち「社会事実に照らして」、「為政者として実行不能」(P.一一七)なものは、宣言(同箇所)、或は、プログラム的政綱(P.一三四)として格付けられ、これらは「為政家に強いることは合理的でない(P.一六三)うえに、また、それらの具体化によって生ずる諸権利は「裁判所を通じて強制しえざる」(P.一三七)ものであるとしている。日本国憲法第九条は、世界情勢に照らして宣言規定にすぎない(P.一一七)が、もし「世界各国が自衛のためにも戦争をしない、また武装もしないことになっている・・・ならば、・・・日本の為政家の実践を拘束する現実的規範である」(P.一六四)。

こうした考えは、実行可能性という概念に強く基づくものであるから、これについて検討する。まず、この「可能性」という術語を高柳がどの範囲で用いているのか明確でない。イデオロギー型憲法の保障する権利が、それを実現する法的・経済的手段の裏付けを欠いていると言うなら、それは文字通り実行不能である。しかし同じ権利を実現する手段的裏付けが備わっているにも拘らず、現在の社会情勢に於いてそれを実現することは不合理であるから、実行不能であると言うのは、解釈者の信念に基づく個人的実行不能であり、これらは同一ではない。そして日本国憲法第九条の場合、そこで規定されているのは、戦争、及び、その準備の禁止であるから、それが手段的に実行不能であるということは有り得ない。高柳は社会権に於ける実行可能性という概念を憲法法規一般に拡張することで法的拘束性を定義しようと試みた訳だが、その結果は、この概念に、解釈者の意志という問題を持ち込むことになったと言える。

一・五・一 ここで次のような議論の成り立つ余地が在るかもしれない。 自衛隊が違憲だとしても、少なくともそれは自隊法第八十七条で武器を保有する権限を与えられており、そのうえ防(衛庁)設(置)法第五条第一項で支出負担を行なう権限を与えられている。従って、軍税を徴収することは、これらの法規及び所得税法に関する限りは適法であると言ってよいのではないのか。

この議論が提起する問題のひとつは、砂川最高裁判決の垂水・裁判官がその補足意見で指摘している〔21〕。それによると、日本国憲法第三十一条は法律上の手続きに拠って刑罰を科す旨を規定しているが、この規定は、刑罰を定めた個々の実体法迄も日本国憲法の規定に叶っていなければならないのか、それとも、単に刑罰の手続きのみが憲法の規定に叶っていさえすればよいのか、ふた通りに解釈出来るということである。ハ)これらのうち後者は、憲法の規定に関する弱い解釈の仕方であると言うことが出来る。

もし、憲法がこの意味で弱い解釈を受けるとすると、或る実体法がその適用に関して憲法で定められている方式に違反するような内容の政策行為を初めからその条文で指定している場合は、たとえその条文の適用が、一般に法の適用に於いては、禁止されている政策行為を実質的に実現する効果を生むとしても、それは法の適用条件に違反することにはならない。本節冒頭で取り上げた議論に即して言えば、日本国憲法第九条は自衛戦力を準備するという政策行為を禁止し、他方、自隊法第八十七条及び防設法第五条は初めからそのような行為を実現する効果を生むべく書かれてあるので、従って、もし日本国憲法第九条が実体法の適用方式についての規定であれば、自隊法及び防設法の適用は憲法の弱い解釈の仕方によって日本国憲法第九条に違反せず、自衛戦力の準備はその拘束を受けない。

だが、日本国憲法第九条は、他の実体法の適用を拘束することを通して可能な政策行為の範囲を制限するというよりは、寧了、それ自身が単独で或る種の政策行為の禁止を規定したものであって、§一・二で見たような、法の形式的条件が、直接、条文の形で述べられるという例に該当する。従って、この場合、法の適用条件が弱い解釈を受けるかどうかに拘らず、軍税を徴収することは日本国憲法第九条という、法の形式的条件によって禁止されることになる。

一・五・二 長沼訴訟の判決の中で、福島重雄・裁判官他かは、次のように述べている(〔7〕PP.七八f)。 「或る処分の取り消しを求める理由として、憲法違反・・・と単純な法律違反・・・とがともに主張されている場合については、もし〔後者〕の点について判断することにより、その訴訟を終局させることが出来るなら・・・〔前者の点〕についての判断を・・最終判断事項として保留・・・〔しなければならないが〕・・・〔そのような形で〕その訴訟を終局させたのでは、当該事件の紛争を根本的に解決出来ないと認められる場合には・・・〔この限りではない〕。」

一般に、或る行為が何らかの法律に叶っており、一見したところその違法性は認められず、また、その法律は、それが実体化される根拠を別の法律の規定によって与えられているといった場合でも尚お、その行為は、法律の実体化に関する更に高次の条件を規定する法律には違反していることがある。この場合、その行為の違法性は、それを正当化する法律の固有の属性と言うよりは、それよりも高次の法律に基づいてその法律を実体化したことから派生したものである。このようなとき法の審査はどの範囲迄及ぶべきかについては、さまざまな可能性が与えられ、適法 違法が判断出来る限り最大限高次の法律迄及ぶとするもの(以下、統合的法処理)から、そうした判断の出来る限り最小限度高次の法律に制限しようとするもの(以下、局地的法処理)迄有りうる。九)

上で引用した長沼判決は、条件付きの統合的法処理の例であり、また、自衛隊の野外電話線を切断した行為は自隊法第百二十一に違反しない旨の判断のみから被告に無罪を言い渡した恵庭事件判決(辻、他か〔23〕)、及び、米軍の駐留が違憲であっても、被告が同軍の使用する飛行場に入ったのは刑事特別法に違反するとの理由から被告を有罪とする。砂川判決の田中耕太郎・裁判長の補足意見〔19〕十)は局地的法処理に該たると言ってよい。

恵庭判決はたまたま弱者の人権が救済された形だが、砂川最高裁判決ではそれが侵害されたのみならず、それは米軍駐留を容認し、その地位を特別扱いとするといった、そもそも政策立案者の裁量に属さない筈の余地を彼らに与える役割りも演じたのである。従って政策立案者は、もし現行法で容認されていない行為をしようと思ったら、その行為を正当化する法律を制定した後と、それに取り掛かればよく、たとえその行為が司法審査を招くことになっても、裁判所が局地的法処理を執る限り違法となる恐れは無く、結果的にどのような政策行為も適法に遂行出来ることになる。日本国憲法第九十八条第一項はすべての国務行為に適憲性を求めている。これは同法第八十一条で裁判所に付与された審査権を可能な限り最大に適用せねばならない義務を裁判所に負わせるものと言ってよい。

尚お、防衛関係費のうち、§一・一で見た駐留米軍への提供施設に対する整備費分については、局地的法処理を採っても違法である。と言うのは「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」第二条第一項(a)は、駐留米軍に対し日本国内の施設の使用を認めているものの、この施設については、「当該施設・・・の運営に必要な現存の設備、備品及び定着物を含む」(傍点、原告)とするだけで、将来の整備については何ら規定していないからである。

一・六 以上述べたところを次に纒めておくことにする。

被告が還付を拒否している分の所得税は、高度の軍事的目的に充てられており、日本国憲法が禁止する軍税に該当するので、そうした課税は日本が自らの法律に基づいて行なうことが出来ない筈である。(§一・一)

日本国憲法は裁判所に法令審査権を与えたうえ、違憲の国務行為を無効としている。従って、軍税を課す行為が違憲かどうか判断出来ないとする立場は、法の解釈上、成り立たない(§一・二)

「国際紛争」という語句の意味、及び、「前項の目的を達するため」という め込み文の外的意味より、日本国憲法第九条は自衛戦争と実体的戦力を同時に禁止したものである。(§一・三・一)問題の め込み文の外的意味の変更により自衛用戦力の保持を正当化することは、同条の本来の適用範囲を狭めることになるので憲法破棄に該たる。(§一・三・二)自衛戦力によらなくとも、実在する圧迫を取り除く途は残されているが、それは、その選択にあたり必ずしも全員の一致を必要としない点でそれ以外のものより勝れている。(§一・三・三)

日本国憲法第九条のみでは行政訴訟を起こせないことから、その法的拘束力を否定することは、同条が、別の法規によって保障された権利の幅を定義することで訴訟に係わって来るという可能性を排除している。(§一・四・二)また、同条の規定事項が実行不能であるとしてその法的拘束力を否定することは、社会権に当て まる手段的実行不能とは異質のものを同条に適用するもので受け入れ難い。(§一・四・三)

自衛隊が武器を調達し、その支出を負担することは、法の形式的条件を定めた日本国憲法第九条に違反している。従って、法の適用条件のみが受けるその弱い解釈を援用して軍税徴収を同条の制約から逃れさせようとする試みには望みが無い。

(§一・五・一)

司法審査が、審査可能な最小の法律に局限されるならば、これは法令審査の途を縮小するものであり、可能な政策行為の余地を無制限に拡大することに繋がる。(§一・五・二)

統治行為論、憲法の弱い解釈、拘束力の基準、そして局地的法処理のいずれも日本国憲法第九条の適用を阻止出来ず、そのうえ、同条も自衛戦力を禁じているとなると、軍税を徴収するという国務行為は同条に違反するものであり、被告がそれを原告に還付するのを拒否しているのは同法第二十九条の保障する財産権を侵害することになる。

二 林信一・国税不服審判所長による一九八四年三月九日付裁決の法的根拠について見ておくことにする。

所得税額は「所得税法その他税法の規定により まるものであって、日本国憲法の個々の条文から直接定まるものでない」(甲-一号証、P.三)との陳述は、日本国憲法のみに基づいて所得税額を算定すべきではないと言うのか、または、日本国憲法は所得税額の算定と一切無関係だと言うのか、二義的に曖昧である。だが、所得税額は国の歳出予算に左右されない旨の陳述(同箇所)から考えて、裁決者の意図は後者であると思われる。もし所得税の算定にあたり日本国憲法第九条を考慮に入れていたら、特定の対象のみを法の適用領域から先験的に排除して、(法の個体変項の位置にどのような個体記号を入れるべきか予め決定して、)法を適用することはないから、国の歳出予算の使途を調べている筈である。従って裁決は、適用すべき日本国憲法を適用せずになされたことになるから、同法第九十九条に違反する。尚お、軍税の控除規定が無い、(同書、P.四)ことは、日本国憲法が所得税額の算定と無関係であるという前提に立って初めて裁決を正当化するものであり、その前提が成り立たない以上そうしたことは何の意味も無い。

脚註

一)閉じた左右の角括弧内の数字は参照文献目録に記載されている文献の整理番号を示す。

二)従って、原告適格を認めながら、訴えの利益が無くなったとの理由で判決を行なった長沼最高裁判決(『読売新聞』夕刊、一九八二・九・九、P.二)は矛盾を含むものである。

三)短SAMとASM-1の射程と誘導方式は、それぞれ防衛庁(〔1〕P.一八八)及び豊田(〔22〕P.八五)に拠る他か、塔載機関を除く各項目は全て『防衛年鑑』(〔5〕PP.三五一-三六四、〔6〕PP.三四〇f)に拠るものである。塔載機関については、DDGが防衛庁(〔1〕P.一八八)、DD及びSSが同庁(〔3〕PP.二一八f)、DEが同庁〔2〕、P-3Cが鍛治(〔14〕P.一五三)、F-15が『国防用語辞典』(P.三三)、そしてF-1が防衛庁(〔2〕PP.八八f、一七二f)及び『世界』(〔17〕P.四八)にそれぞれ基づくものである。

四)統治行為論者中の中には、憲法規範の中から政治的なものだけを折出し、もともと政治の守備範囲に属するこれらの政治的規範については改めて統治行為論を適用することはせず、これら以外の残りの規範についてだけ政策載量を問題にしようとする者が在る。伊藤〔9〕、〔10〕はこの立場であるが、いずれにせよ「政治的」という術語の定義に関して統治行為論と同じ問題に突き当たることに変わりはない。本書§一・四・二参照。

五)A)を採りながら、現在の自衛隊の装備上、または、機能上の欠落を挙げて、自衛隊は軍隊たりえずとする立場を、自衛隊に関する弱い合憲論と呼んで、軍隊として認める合憲論と区別するなら、一)-B)は、戦力の実体を認めるという点で、弱い合憲論と結果的に似ているが、前者では、自衛隊が軍隊かどうかといった経験的問題が問われているのではない。

六)この点に関しては、伊藤隆男〔12〕を参照されたい。

七)例えばレーガン・米大統領の次の発言を考慮。 「サウジが何者かによって支配され、その石油輸出がストップするような事態が起きそうな場合、米国はそれを黙って見過すことは絶対にない」(『読売新聞』)夕刊、一九八一・十・二)。

「米国の友邦、敵のいずれにも、我々がカリブ海地域の平和と安全とを確実なものにする為、慎重だが、必要な措置はなんでも講ずることを理解させよう」(同紙、夕刊、一九八二・二・二十五、P.二)。

八)実際、垂水・裁判官がここ迄明確に法の形式と適用とを区別しているかは疑問が在る。すなわち、ひとつの解釈として、「憲法三十一条は単に刑罰・・・は国会を通過した手続法によらなければ科せられない、というだけで〔刑罰の規定が憲法に叶っている〕ことをまで必要とする趣旨ではない」と述べている(P.三二五三)。もし憲法の弱い解釈を採るならば、刑法は国会を通過している必要も無いことになる。

九)適法 違法のいずれかの片方のみを用いて可能性を分類することも出来る。例えば、n個の法典から成る連鎖、(L1,L2,L3,・・・,Ln)に於いて、どの整数iについても(但し1<in)、L(i-1)は、Liよりも高次の法典であるという関係が成り立っているとする。また、或る任意の整数jについて(但し1j<n)、或る事件の被告の行為は、これらの法典のうち左からj番目のものLjに違反しており、かつLjは法典連鎖に於いて被告の行為が違反する法典のうちで、(a)最も左側のものであるか、或は、(b)最も右側のものであるとする。このとき、被告の行為を違法とする前提となった原告の措置がL(j-k)に違反していない限りは(但し1K)、司法審査はLjの範囲内に限定される(もし原告の措置がL(j-k)に違反する場合は、(c)最も左側のL(j-k)または、(d)最も右側のL(j-k)の範囲内に限定される)ということも有りうる。(a)-(c)は最大違法主義、(b)-(d)は最小違法主義と呼ぶことも出来る。

十)特にP.三二三八での次の旨の発言等。 「或る事実が存在する場合に、その事実が違法なものであっても、一応その事実を承認する前提に立って法関係を局部的に処理する、法技術的な原則が存在する・・・」 そのような例として彼は不法入国者の生命等の保障を挙げている。だが不法入国者の保護は一時的でその場限りなのに対して、半永久的な米軍駐留は法的に正しいものとして規定されているのである。

参照文献

〔1〕 防衛庁(編)、一九八一『日本の防衛』。

〔2〕 (編)、一九八二『日本の防衛』。

〔3〕 (編)、一九八三『日本の防衛』。

〔4〕 防衛学会(編)、一九八〇『国防用語辞典』朝雲新聞社。

〔5〕 防衛年鑑刊行会(編)、一九八〇『防衛年鑑』。

〔6〕 防衛年鑑刊行会(編)、一九八二『防衛年鑑』

〔7〕 福島重雄・稲守孝夫・稲田竜樹、一九七三「理由」福島、他か(編)〔8〕、七一-一二二。

〔8〕 (編)、一九七三「保安林指定の解除処分取消請求事件」『訟務月報』十九・九、一-一二二。

〔9〕 伊藤正己、一九六五『憲法の研究』有信堂。

〔10〕 一九八二『憲法』弘文堂。

〔11〕 伊藤隆、他か二百七十名、一九七三「原告らの主張」福島、他か(編)〔8〕、五-五四。

〔12〕 伊藤隆男、一九八〇・四・五「理性か武器かどちらを選ぶ」『朝日新聞』日刊、五。

〔13〕 影山日出弥、一九七五『憲法の基礎理論』現代法選書、二、 草書房。

〔14〕 鍛治壮一、一九八一「攻撃型軍事力への転換」『世界』十月号、一四九-一五六。

〔15〕 小谷勝重、一九五九「意見」田中、他か(編)〔20〕、三二六八-三二七九。

〔16〕 村重慶一、一九七三「被告の主張・認否」福島、他か(編)〔8〕、五四-七一。

〔17〕 『世界』編集部(編)、一九八二「白書・日本の軍事力」『世界』十二月号、三四-七九。

〔18〕 高柳賢三、一九六三『天皇・憲法第九条』有紀書房。

〔19〕 田中耕太郎、一九五九「補足意見」田中、他か(編)〔20〕、三二三七-三二四三。

〔20〕 田中耕太郎・藤田八郎・池田克・入江俊郎・石坂修一・河村大助・河村又介・小谷勝重・奥野健一・斉藤悠輔・島保・下飯坂潤夫・高木常七・高橋潔・垂水克己(編)、一九五九、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件」『最高裁判所刑事判例集』十三・十三、三二二五-三三一一。

〔21〕 垂水克己、一九五九「補足意見」田中、他か(編)〔20〕、三二五一-三二六〇。

〔22〕 豊田利幸、一九八二「核戦略体制下の通常軍備」『世界』十二月号、八〇-九二。

〔23〕 辻三雄・角谷三千夫・猪瀬俊雄、一九六七「自衛隊の演習本部と射撃陣地とを連絡する射撃命令伝達用の電話通信線は、自衛隊法第百二十一条にいう「その他防衛の用に供するもの」に該るか」『下級裁判所刑事裁判例集』九・三、三五九-三六六。

<省略>

表1

<省略>

表2

「準備書面」 一

(一) 浦和地方裁判所第四民事部 御中

(二) 一九八四年九月一七日

(三) 原告 伊藤隆男

〒三四〇 埼玉県八潮市鶴ヶ曽根一、二九七 八潮中学校内

(電)〇四八九(九六)四二一九

被告 越谷税務署長・和気誠一

〒三四三 埼玉県越谷市赤山町五丁目七番四七号

(電)〇四八九(六五)八一一一

被告指定代理人

<1>星川照 <2>小松安雄 <3>南昇 <4>三ツ木信行 <5>長沢幸男 <6>佐藤文夫 <7>高須要子

(四) 昭和五九年(行ウ)第七号所得税更正処分取消請求事件

(五) 付属文書

〔一〕 甲-七号証 訳文、二通。

〔二〕 甲-八号証 訳文、二通。

〔三〕 「準備書面」一、謄本一通。

(六) 全紙数 八枚

反論

一 昭和五九年八月六日付被告側「答弁書」について論評する。

被告指定代理人によれば、訴訟理由については、「原告の主張の整理をまって反論する」とのことだが(P.五)、これ程の無恥は無い。「訴状」に掲げられた訴訟理由について一切反論することをせず、そのうえどうして訴えの棄却を求めることなど出来るのか。「整理をまって」とは、原告の主張が整理されていないと言うのか。では、どこがどのように未整理なのか。未整理と思う箇所について釈明を求めればよいではないか。

被告指定代理人は、原告が外国税額控除の名目で申告した七七一円が所得税法に叶っていない点を挙げて原処分を正当化しようとしている(PP.六ff)。だが、「訴状」で述べた通り、当該金額が所得税法上の外国税額控除に当たらない旨は、審査請求、及びそれに伴う意見陳述に於いて原告もこれを異存無しとしたところである(P.三)。そしてそれはまた、異議決定、及び審査請求に対する答弁の中で被告側が繰り返し述べているところでもある(同書、PP.二f)。「訴状」は、このことを以って原処分を正当化しようとする議論が偽りである旨につき縷縷申し述べている。それでは一体何故この訴訟の段に至って尚おも被告指定代理人は、原告が既に偽りの議論として批判したものを主張するのか。

こうした事情であるから、原告として成し得るのは、被告側主張と同趣旨の主張を認めた、名古屋地裁の一九八〇年十一月十九日付け判決について検討することである。以下、これについてやや立ち入った考察を加えることにする。

二 同判決の理由によれば、「・・・国会の議決を経た予算自体及びその支出の違憲・・・を理由に納税者たる国民がその是正を求めて出訴する制度・・・は、現行法制上存在しない」(〔4〕P.九八)。その理由は次の二系統から成る。

(A) (1) 「・・・租税実体法の定める課税要件を充足する事実の発生により・・・租税債権者・・・は租税を徴収する権利を取得し、・・・納税者はこれに応じて租税を納付する義務を負担することになる」(同書、P.九七)。

(2) 「・・・予算の成立及び予算に基づく国費の支出については・・・国会の議決を経なければならないとされている・・・」(同所)。

(3) 従って「・・・国民の納税義務と予算及び国費支出とは、・・・その法的根拠を異にし全く別個なものである」(同書、PP.九七f)。

(B) 「・・・もし右のような出訴を許すとすれば、・・・財政民主主義の制度と矛盾し、これを侵害する結果を招来する・・・」(同書、P.九八)。

二・一・一 A系統の議論は、その根底に次の二つの前提を含んでいる。

(A′) (4) 法的根拠が互いに異なる二つの行為は同一の違法性を持つことが無い。

(5) 任意の二つの行為について、いずれか一方が訴訟の対象になりうるとき、両者が同一の違法性を持つならば、他方もまた訴訟の対象になりうる。

A系統の議論は、徴税行為と予算編成について、前者は租税実体法に、後者は国会の議決に、それぞれ基づくものであるから、両者は法的に無関係である旨を論証しようとするものである。だが、このことは、たとえ法体系的に真であったとしても、そこからA′系統の議論を用いて、予算編成が訴訟の対象にはならない旨の陳述を引き出すことは出来ない。と言うのは、A′-5の逆、つまり次のA″-5′、法体系的に真でないからである。

(A″) (5′) 任意の二つの行為について、いずれか一方が訴訟の対象になりうるとき、両者が同一の違法性を持つときに限って他方もまた訴訟の対象になりうる。

さもないと、それ自身独立的に訴訟を起こすことが認められている或る行為が、同じく独立的に訴訟を起こすことが認められている他の行為に対して異なる違法性を持つという理由で、訴訟を起こすことを拒否されるといったことになるであろう。従ってA・A′系統の議論は、それ自身、上記の判決理由を説明する何らの役割をも果たさないので、その法体系的真偽関係を考慮する必要が無い。尚お、同判決の被告側は、A・A′系統の議論を同判決理由に直結させることを行なっているが(〔4〕PP.九二f)同判決理由は少なくともそうした議論に於いては論理的に偽である。

更に、A系統の議論は、「に基づく」という術語を拠り所としているが、この術語が何を意味するのか全く明らかでない。或る行為は一般に、どのような当事者間に、どのような種類の関係を、どの程度迄設定するか、といった観点から定義出来るが、これらを規定する法規のうち、どの法規ならば、当該行為はそれに基づくと言うのか。A-1について見れば、租税実体法は徴税に係わる当事者及び徴税権の範囲を特定するひとつの法規系ではあるが、徴税権そのものが租税実体法から引き出せる訳ではない。徴税権の範囲を特定する法規の中には、租税実体法のように徴税行為固有のものから、憲法のように行政行為が一般に満たさねばならないもの迄あり、また、徴税権を規定するものは憲法第三〇条のみである。また、A-2について見れば、予算編成の当事者及びその職権を規定しているものは憲法第八三、八五、及び八六条であり、その職権の範囲を特定するものは憲法の他の規定及び国会法等が挙げられる。

そこで、もし或る行為は、それを規定するすべての法規に基づくとする立場に立つならば、互いに異なる二つの行為について、そのいずれか片方のみがそれに基づくような何らかの法規を見出すことは容易である。そしてその際、それらの行為は、互いに異なる法規に基づくものになる筈だから、従って両者は法的に無関係と言うことになる。こうした立場を押し進めて行くと、例えば、課税総所得金額の計算は所得税法第二章の規定に基づくものであるが、所得税額の計算は同法第三章の規定に基づくので、両者は互いに法的に無関係と見做さざるを得なくなる。

以上のような訳で、上記判決理由に対し有力な根拠となっているものはBによる議論のみである。以下、これについて検討する。

二・一・二 Bによる議論は、予算編成権は国会に属しているから、それが国会の議決を経ている限り、国会以外の者がこれを是正しようとすることは「国会の権限を侵すことになる」(〔4〕P.九二)と言うものである。更に、予算編成がたとえ違憲であっても国会の権限を守ることが、それほど異常でもなく、かつ、有りそうなことでもあるのを示す例として松本・裁判官他かは、憲法第二五条で規定されている社会福祉向上の使命に反して社会福祉予算を減少させる場合を挙げている(同書P.九八)。何たる杜撰な議論であることか。松本・裁判官らは国会の権限ということについて勘違いされておられるようだ。憲法は予算編成に関して白紙委任状を与えている訳ではない。その証拠に憲法第九八条第一項は、憲法に反する法律の無効を規定しているのである。それでは、そもそも国会の権限を超えた国会決議に対し、これを是正しようとすることが何故その権限を侵すことになるのか。

尚お、福祉予算を減少させることが社会福祉向上の使命に反すると言うなら、行政改革によって機構を整理し、従来福祉行政に要した非効率な事務経費を削減することすら出来なくなる。しかも防衛関係予算の場合は、その違憲性の判断についてこのような経験的曖昧さを含まない。

二・二 ついでに、自衛隊の違憲判断について判決理由が述べているところを見ることにする。

「・・・自衛隊の設置、運営は、・・・一見極めて明白に違憲と認められる場合でない限り、司法審査の対象とはなり得ないものというべきである。よって考えるに、憲法九条は、・・・侵略のための陸海空軍その他の戦力の保持を禁止していることは明白である。しかし、・・・憲法九条二項が一見極めて明白に自衛のための戦力の保持を禁じているものとは解し難い。〔中略〕・・・自衛隊の組織、編成、装備が一見極めて明白に侵略的なものであるとは即断できない・・・」(〔4〕PP.一〇一、一〇二)。

憲法第九条は侵略戦争を禁止しており、自衛隊が「一見極めて明白に」侵略戦争を企てようとする時は違憲判断を下すのがよいと、そう松本氏らはお考えのようだ。だが、それでは憲法第九条に於いて、侵略戦争は「一見極めて明白に」禁止されているにも拘らず、自衛戦争は必ずしも「一見極めて明白に」禁止されてはいないと言うのは何故か。侵略戦争は「国際紛争を解決する手段として」の戦争に当たるが、自衛戦争はそうであるかどうか判断出来ないと言うのは何故か。それは、侵略戦争は悪であるが自衛戦争は必ずしもそうでないといった「自己の政治信条」(同書、P.九九)が、松本氏らの側にあるからであろうと原告は考える。それでは松本氏らは、例えば次のような陳述に何と答えるのか。

「いったい領土拡大の欲望ははなはだ自然でかつ普通のものであるから、能力のある者はたえずこの欲望を達成しようとする。これは称讃すべく、少なくとも非難すべきものではなかろう。」(N.Machiavelli〔2〕P.二四)。

更に、そもそも「一見極めて明白に侵略的」だなどと言うことが有り得るだろうか。「侵略」の名の下に侵略を奏功させる程有能な暴君などめったに存在しない。例えば、中国とソ連の国交正常化の腓しの見えた一九八三年十月一日、中国が正常化の条件のひとつとするアフガニスタン問題について、当時アンドロポフ政権の対中国政策の顧問であったレフ・デリューシンは次のように語っている。

「アフガンでは米中の武器で武装した雇い兵たちとの過酷な戦争が続いている。今ソ連軍が撤退すれば、後に危険を残すだけだ。」一)(『読売新聞』日刊、一九八三・十・二、P.五)。

これに遡る一年数か月前、ポーランドの軍政化に関してソ連を批判した、一九八二年一月二六日付けイタリア共産党機関紙『ウニタ』掲載の論文「プラウダへの回答」に対し、ソ連共産党機関誌『コムニスト』同年第二号は、「危なかしい道で」と題する論文の中で次のように述べている。

「・・・階級の敵がなぜ激怒するか〔軍政化に対する西側による批難のこと〕というと、それはポーランドの社会主義国家が自国の勤労人民の社会主義的成果を内外の社会主義の敵の破壊と反革命活動〔「連帯」運動のこと〕から守る機能を徹底的に、断固として始めたためである。」(『赤旗』日刊、一九八二・二・八、P.七。〔〕部、原告補足)。

つまり、一九八一年九月十三日にカブール南東のバドクワブエシャナ村にソ連軍が接近した際、潅漑用トンネル内に避難した村民一〇五人を、ソ連軍がガソリンで焼き殺したことも(『読売新聞』日刊、一九八二・十二・二十三、P.五)、また一九八二年一月下旬にアフガニスタン政府軍とソ連軍がヘラート及びカンダハル市を攻撃し、多数の市民を殺害したことも(同紙、日刊、一九八二、一・二十一、P.七、二・三、P.七)、「ソ連軍が撤退」することによる「危険」に比べればましだとデリューシンは考えているのであり、他方、救国軍事評議会発表で五、九〇六人の「連帯」関係者及び統一労働者党員を逮捕し(『読売新聞』日刊、一九八二・一・九、P.七)、即決裁判で禁固刑を言い渡し、拷問を加える迄してポーランドの政治的自決権を抑圧することは、『コムニスト』の執筆者によれば「社会主義的成果を・・・守る」ことなのだ。

西側とて変わりは無い。レーガン政権の外交政策の顧問団に近いとされるR.W.Tucker〔7〕は次のように言う。

〔・・・今日我々が採るべき途は、ソ連の勢力の拡張、並びに共産主義一般の拡張を、出来る限り封じ込めることに再び没頭する。甦るアメリカの政策か、或は、〕必要性の範囲に局限された〔穏健な封じ込めの政策のいずれかである〕(P.二六五)。〔中米は地理的に合衆国に近接しており、歴史的に古くから我々の勢力圏内に属すると見做されて来た〕(PP.二六九f)。中米に於いて〔我々は諸政府のいかなる行ないが申し分の無いものであるかを明示して来た〕(P.二七〇、傍点、原告)。ペルシャ〔湾岸では、我々は内政秩序に関与せざるを得ない。何故なら、この問題は石油の供給に在り付くうえでの死活的利益と切り離すことが出来ないからだ〕(PP.二七二f、傍点、原告)。

要するに、米国が中米で、「甦るアメリカの政策」を、また、ペルシャ湾岸で、「穏健な封じ込めの政策」を、それぞれ執るについては、それ相当の理由が在るとTuckerは言うのである。従って、ここでも、そうした政策が侵略政策であるとする認識は見られない。

こうした声明を目にする者は、それらは、単に表明されている政策の支持に人々を向わせる為に準備された聞こえの良い宣伝にすぎないのであって、声明の本音は別に在るのではないかと思うかもしれない。だが、こうした解釈は半分しか正しくない。確かに声明は宣伝の為に行なわれるものである。しかし、声明が、何万という人々を虐殺する結果を すような政策の支持を訴えている場合は、そうした政策の立案者の信念は声明と近い所に在る。例えば、インドシナ介入に於ける米国の真意と、ベトミンは外国の侵略の手先であるという対内・外向けの修辞学との間に、米国の政策立案者の自己欺 を期待して『国防総省機密文書』を繙くN.Chomskyは、そこに次のような事実を見出して驚くのである(〔1〕P.八三)。

「〔情報機関は、〕ベトミンとその外国の主人とのいかなる重要なつながりもみいだせなかったのである。トップの計画立案者たちは、・・・この失敗を自分たちの命題の確立とみなした。ベトミンは明らかに、直接の統制なしに行動する「特別の訓練」をほどこされているモスクワ(のちに「北京」の地方機関だというのである。」(〔〕部、原告換言)。つまり、『国防総省機密文書』が文字通り政策立案者の真意を表わすものである限り、そこで述べられた真意は、対内・外向けの修辞学と同一であり、しかも、それはそれを裏打ちする経験的証拠が全く無いことが分っているにも拘らず、依然として政策立案者の真意であり続けたのである。二)

松原正は、戦争こそ人間の本質であると説く著書の中で次のように言う(〔3〕P.六〇)。

「不正をなす場合の吾々は、それが不正であるか否かを全く気にせずして不正をなす訳ではない。通常吾々は悪と知りつつ悪をなすが、「盗賊にも三分の理」があって、「良心の判決に頓着しない」のでなく、しばし頓着して後、悪事をなす事を正当化し、やがて頓着する事をやめるのである。」

言い換えれば、人は、単に悪の名の下に悪をなすことが出来ないだけでなく、悪と信じて悪をなすこともまた出来ない。このことは大秀夫の研究によっても裏付けられる。大 によれば、一九六〇年代末の学園紛争の時期に、日経連を中心として財界からの「防衛発言」が起こったが、学園紛争が七〇年安保闘争に結び付くことなく終息するに及んで、財界からの防衛発言」は姿を消したと言うのである(〔5〕第三章)。大 はこれから次のような帰納を行なう(同書、P.六一)。

「・・・六〇年代末のエピソードは、各企業における労務官理体制が動揺しないかぎり、政治権力による直接の労働者・国民の管理というファシズム化・・・が進行しない・・・ことを示しているように筆者には思われる・・・」

この陳述は、右傾化がいつも管理化に基づくと言う限りでは正しい。だが、学園紛争の終息に伴って財界の発言が己んだのは、そうした発言がそもそも、学園紛争によって企業の利益追求の必須条件である労務管理に混乱が生まれるのではないかといった懸念に基づいていたからで、寧了、管理化に基づく右傾化は軍事化に繋がらないと言うのが良いと原告は考える。

こうして、人間は正しいと信じて侵略戦争を行なうのであるが、だとすると、自衛隊が「一見極めて明白に侵略的なものである」などと言うことは金輪際有りはしない。従って、自衛隊が「一見極めて明白に」侵略戦争を企てようとする時に限って司法審査を成すべきであると考える松本・裁判官らは、有り得ない可能性に限って司法審査を認めていることになる。それならば、憲法第九条は、司法審査の根拠とは絶対にならないという意味で、法的拘束力を全く持たない条文ということになる。だが、法的拘束力を持たない法規などと言うものがもし在るとすれば、それはもはや法規ではない。では、松本・裁判官らは憲法第九条は法規ではないと主張するのか。

尚お、自衛隊が実際に「一見極めて明白に侵略的」になってしまってから違憲判決を下しても遅いのではないかと問う向きがおられるとすれば、そうした心配は無用である。憲法第九条の解釈についてあのような粗雑な議論しか提示することが出来ず、かつまた、善-悪についてあのような素朴な「信条」しか持ち合わせない松本・裁判官らが、そうした国家体制の下で自衛隊を違憲と判示することは、原告には考えられない。

脚註

一)アフガニスタン反政府ゲリラが米国製武器で武装している旨の件りは事実である。米国はこれ迄アフガニスタン反対ゲリラに対し、年平均で三、〇〇〇万ドルから三、五〇〇万ドルの秘密援助を行なっている(『読売新聞』夕刊、一九八四・七・二八、P.二)。また、一九八四年七月三十一日夜のアフガニスタン放送によれば、同国政府軍は当時、カズニ州に於ける反対府ゲリラ掃討作戦で、大量の外国製武器を押収しているとのことである(同紙、夕刊、一九八四・八・一、P.二)。

二)こうした態度は、理性的行動に先立って取り決められた窮極的目的の達成の為に入手しうる手段を最大限に用いるという意味でK.R.Popperが「ユートピア主義」と命名した(〔6〕P.三五八)態度に似ている。だが、侵略主義が、多かれ少なかれユートピア主義的要素を持っていたとしても驚くには当たらない。

参照文献

〔1〕 Chomsky. Noam一九八一『知識人と国家』河村望(訳) TBSブリタニカ。

〔2〕 Machiavelli Nicollo一九五九『君主論』黒田正利(訳) 岩波文庫 三四-〇〇三-一、岩波書店。

〔3〕 松原正、一九八四『戦争は無くならない』地球社。

〔4〕 松本武・浜崎浩一・原田卓、一九八一「税金支払停止権確認等請求事件」『行政事件裁判例集』三十一・十一、八二-一〇三。

〔5〕 大秀夫、一九八三『日本の防衛と国内政治 デタントから軍拡まで』三一書房。

〔6〕 Popper, Karl R. 1974 5 . Conjectures and refutations:The growth of scientific knowledge. Lond:Routledge & Kegan Paul.

〔7〕 Tucker, Robert W 1980/81.“The purposes of American power.”Foreign affairs, Winter, 241-274.

昭和五九年(行ウ)第七号

原告 伊藤隆男

被告 越谷税務署長

昭和五九年八月六日

被告指定代理人

高須要子

星川照

南昇

長沢幸男

三ツ木信行

小松安雄

佐藤文夫

浦和地方裁判所第四民事部 御中

答弁書

請求の趣旨に対する答弁

原告の請求を棄却する

訴訟費用は原告の負担とする

との判決を求める。

請求の原因に対する認否

第一段 「原告は一九八三年二月三日に・・・・要求した(甲-二号証、甲-三号証)。」について

原告が昭和五八年二月三日に、原告の主張するような理由から外国税額控除をした昭和五七年分の所得税の確定申告書を被告に提出したことは認める。

第二段 「これに対し被告は・・・・通知書を受領した。」について

被告は、昭和五八年五月一〇日原告に対して、甲第一一号証のとおり原告の昭和五七年分所得税の更正処分をしたことは認め、その余は不知。

第三段 「原告は一九八三年五月十一日・・・・異議申し立てを行なった(甲-四号証)。」について

原告が、更正処分の理由に関して被告所部係官に電話での問い合わせをしたこと、その応答内容がおおむね原告主張のとおりであったこと及び原告が、被告に対して、甲第四号証のとおり異議申立てをしたことは認める。

その余は不知。

第四段 「被告は一九八三年八月一日、・・・・憲法違反となる旨を、述べた(甲-七号証)。」について

被告が昭和五八年八月一日原告に意見陳述の機会を与えたこと、その際原告は原告が主張するような趣旨の意見陳述を行ったことは認める。

第五段 「被告は一九八三年八月十日、・・・決定書を受領した。」について

被告が、昭和五八年八月一〇日原告に対して、甲第一三号証の一ないし三のとおり、原告の異議申立てを棄却する決定を行ったことは認め、その余は不知。

第六段 「原告は一九八三年八月十二日、・・・審査請求を行なった(甲五号証)。について

認める。

第七段 「これに対して被告は、・・・通知を受領した。」について

被告が、甲第十四号証の一及び二のとおり、関東信越国税不服審判所長に対して、原告の審査請求を棄却する裁決を求める答弁を行ったことは認め、その余は不知。

第八段 「原告は、一九八三年十一月九日・・・・対して行なった(甲-六号証)。」について

認める。

第九段 「同担当審判官は・・・・叶っていない旨を述べた(甲-八号証)。」について

不知。

第一〇段 「これに対し国税不服審判所長は・・・・これを受領した。」について

国税不服審判所長が、昭和五九年三月九日、甲第一号証の一ないし五のとおり、原告の審査請求を棄却する裁決を行ったことは認め、その余は不知。

訴訟理由(訴状四丁裏二行目以下)について

原告の主張の整理をまって反論する。

被告の主張

一 本件課税処分の経緯は次のとおりである。

<省略>

二 本件課税処分の適法性

原告は、昭和五八年二月三日被告に対し、昭和五七年分の総所得金額(給与所得金額のみ)を四三万一〇〇〇円、課税される所得金額に対する税額を一万四一〇〇円、外国税額控除を七七一円、源泉徴収税額六万五一七〇円、還付金額五万一八四一円として確定申告をした(甲第二号証の一、二)。

ところで、所得税法九五条で規定する外国税額控除は、日本国の居住者がその年に生じた所得で、その源泉が外国にあるものについて、その所得の源泉の所在国の法令によって所得税に相当する外国の税を課せられた場合に限り適用されるものである。

この本件についてみれば、原告の昭和五七年分の申告所得金額には、外国にその源泉のある所得が含まれていないから、控除すべき外国の税は課せられていないのである。

したがって、被告は、原告の昭和五七年分の所得税の確定申告における外国税額控除を認めず、同額を零円とする旨の更正処分をしたものであって、本件更正処分は適法であるから本件訴訟は速やかに棄却されるべきである。

付属書類

一 答弁書副本 一通

一 指定書 二通

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